君は言う「善行のためには戦いを犠牲にせよ」と。
私は言う「善戦のためには万物を犠牲にする」と。

ニーチェ「ツァラトゥストラ」より






自分の治療を終えて戻ってきた直は病室の扉をそっと開けた。
秋山を気遣っての行動だったが、次の瞬間直の瞳は驚きに見開かれた。

「秋山さん!?」

あるべきはずの彼の姿がそこにはなかった。
先程までベットで眠っていたはずの秋山の姿が病室から消えていた。
直は慌てて、ベットサイドへと駆け寄りそこへと触れる。
まだ残る温かみが彼が少し前に此処を出たことを物語っていた。

「どこにいっちゃったんですか、秋山さん」

引き抜かれた点滴から、床へと落ちている雫が目に入った。
広がる水滴に吸い込まれるように直の身体から不意に力が抜ける。
直はまるで糸の切れた人形のようにぺたりと床へ崩れ落ちた。

「私が傍にいるのは、そんなにダメなんですか?」

事故に会う前の秋山の姿が直の脳裏に蘇った。
完全な拒絶の意を自分へと示して去っていこうとした彼の姿…。
黙っていなくなってしまうほど、秋山から疎まれていたかと思うと
悲しみに胸が張り裂けそうだった。
呆然としたまま、動けなくなってしまった直の背中にいきなり見知った声が響いた。

「秋山のいるところへ連れていってやろうか?」
「え…?」

振り返ってみるとそこには秋波を含んだ目線を投げかける金歯の男、
直をライアーゲームへと誘った谷村光男が立っていた。
瞬間、直の中で怒りの焔が燃え上がる。

「秋山さんをどこへやったんですか!!」

怒気を孕んだ強い口調で直は谷村へと詰め寄った。
真摯な眼差しが鋭く谷村を捉える。
日頃顔を見せない直の気強さを受けとめながら彼はにやりと笑った。

「健気だねぇ」

嘲るように言う谷村の顔を直は思いっきり睨み付けた。
谷村はそんな彼女を面白そうに一瞥した。瞬間、きらりと怪しく彼の金歯が光る。
大きな脅威として立ちはだかる谷村を前に直は不吉の予兆を感じ取っていた。
そしてもっとも聞きたくなかった言葉が彼の口から紡がれる。


「秋山はライアーゲーム4回戦に参加してるぞ」


皮肉めいた口調でそう告げる谷村の顔を直は凝視した。
頭の中が真っ白になり、動くことができなくなった。
生死に関わる重傷を負っているというのに、
何故彼はまたあんなゲームに参戦しようとするのだろう?
なにより4回戦はもうないと、秋山自身が伝えてきたあの言葉は嘘だったのだろうか?
混乱している直の横へいつのまにか谷村が擦り寄ってきた。
彼特有の匂いが鼻について気分が悪くなる。
愕然としたままの直へ谷村は残酷な言葉を落とした。

「あいつはまた君のせいでゲームへ参加したんだ」
「私のせい?」
「そう、考え無しでおばかちゃんの君のせいであいつはあんな身体で戦うことを余儀なくされた」

意味深長な言葉を投げて、谷村は今にも泣き出しそうな直の横顔をちらりと仰ぎ見た。
挫折を味わい、深淵へと堕ちたこの男にとって直は欺瞞に満ちた人間としか映らなかった。
甘い感情を振りかざし、人の善を信じる心を踏みにじりたいとさえ思ってしまう。
秋山も、この少女も今度こそ奈落へと堕ちていけばいい。
自分と同じ地獄を味わってみればいい。
そんな淀んだ感情に支配された谷村にあるのはただ形の無い憎悪だけだった。

「これ覚えているかい?」

谷村が胸元から取り出したのは、直が絵梨へと渡した書名入りのチラシだった。
直は訳がわからないといった表情を浮かべ、谷村を見つめた。

「今度からこういうものはちゃんと確認してから署名捺印するんだな」

谷村の手が紙をめくり、直が記入した2枚目の用紙が眼前へと突き出される。
自分がサインをした上にあの時には見えなかった文面が現れた。

「これは…、」
「お前さんはあの女にうまく騙されたんだよ。
これにはお前があの絵梨って女が抱えた負債10億円を肩代わりするっていうことが書かれてる」
「嘘、絵梨がそんなことする訳ない!!」
涙まじりに反論する直に谷村は畳み掛けるように言った。
「だから甘ちゃんだって言ってるんだ。
あの女はお前の署名を取ってきたら借金を帳消しにしてやるっていう誘いに一も二もなく乗ってきた。
そんな思惑にも気づかずに、署名して実印までついてしまった自分の浅はかさを恨むんだな」
勝ち誇ったかのように言い放つ谷村は床に沈む直の腕をぐいと引いた。

「じゃあ、行こうか、今度のゲームにお前の存在は不可欠だ。」

引き歪んだ卑しい顔が目に入り直は思わず顔を顔を背けた。
友人に貶められたこと、
秋山が自分のせいでまたゲームに参戦させられようとしている現実が直の心を劈いていた。
暗く淀む凶星が負の方向へと向かって直の運命を流転させ始めた。
抗うことのできない禍しい力は秋山をも巻き込んで二人を深淵へと導こうとしていた。




「つぅ…」
病室から無理矢理連れ出された秋山はゲーム会場へと向かう車の後部座席にいた。
車が揺れるたびに激痛が走り、とめどもない痛みの波が秋山を襲う。
浅い呼吸を何度となく繰り返すことで秋山はそれに耐えようとしていた。

「大丈夫ですか?」

そんな秋山の様子をミラー越しに見ていた男が運転席から声をかける。
感情のない空々しい声を無視して秋山は座席へと深く身を沈めた。
発熱しているはずなのに、なぜか酷い寒気に取り巻かれている。
血の気の通わない指先で秋山は額から落ちる脂汗を拭った。
そんな秋山の様子を事務局員は醒めた目線でみつめていた。
彼が仕える「主」は秋山から全てを奪うことを生きる糧とし、その為に今の地位を築いた。
万全の状態での秋山を貶めることに意義を見出す「主」の為に医者の手配は不可欠だと男は思った。

「後で医者を用意させましょう。ちゃんとした貴方の戦いぶりを我が主もみたいでしょうから」
「我が主?すごいいい様だな。俺を巻き込んだのは「主」とやらの私怨か?」
「ええ、そうです」

さらりと返す男を秋山は冷えた眼差しで見つめていた。
ご丁寧に直を狙い、自分をおびき寄せた狡猾さに頭が下がる。
こんな容赦のない方法でゲームへと誘い込んできた「主」とやらの顔を秋山は拝んでみたくなった。
神崎直を危ない目に遭わせた罪はきっちりと償ってもらわねばなるまい。
やられたらやり返すという持論の持ち主である秋山は不敵な笑みを口元へと浮かべた。

「この借りはきっちり返す。お前の主にそう伝えておけ」
「ふふ、強気でいられるのも今のうちだと私は思いますが…一応承っておきましょう」
「なんだと?」
「そろそろ今回のゲーム内容についてディーラーから説明させましょう。秋山様こちらをご覧ください」
「…?」

その言葉を合図に車の天井からモニターが降りてきた。
ヴィンと無機質な機械音が響いたかと思うと、
画面には以前とは違う仮面をつけたディーラーの姿が映し出されていた。

『ライアーゲーム4回戦へようこそ、秋山深一様。私はディーラーのネメシスと申します。』

ネメシス…復讐の女神の名を語るディーラーに秋山は作為的な何かを感じた。
私怨だけでこんな大掛かりなことをする「主」とは一体何者なのだろうか。
心当たりがあまりに多すぎて秋山は苦笑を漏らした。
ろくな生き方をしてこなかったツケはこんなところで回ってくるらしい。
しかしそれが誰であろうと秋山の身の破滅を望むものが確実にいる。
その悪意を感じながら、秋山はまっすぐにモニターを眺めた。
『4回戦のゲーム内容を説明いたします。4回戦は題して救出ゲーム』

「救出ゲーム?」

怪訝な表情を浮かべる秋山の眼前で2,3回画面がしばたいたかと思うと不意に別の映像が流れた。
オレンジ色の電灯が一つだけ灯された不気味な洋室の真ん中に檻がひとつ置かれている。
中には赤い綺麗なドレスをまとった長い髪の少女の姿が確認できた。
だんだんとズームアップされていく映像…
やがて少女の顔がはっきりと映し出された時、秋山の瞳が驚愕に見開かれた。

「な…んだと!」


檻の中で所在なさげに立ち尽くしていたのは神崎直、その人に他ならなかった。
秋山は拳を握り締め、食い入るように彼女の姿を見つめる。
奈落の底へと囚われた直を、秋山はなすすべもなく今は見ていることしかできなかった。



深淵が扉を開く…。



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2007.7.13るきあ あれあれこれはどーなるんだろう??



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