三島によって篭められた部屋には何もなかった。
窓も明かりも時計も、生活に関するものが何一つないがらんどうとした四角い部屋。
暗闇が支配するその場所はまさに人を幽閉する為に作られた残酷な空間だった。

「秋山さん…」

ぽつりと呟いた直は抱えるようにして座っていた膝に顔を埋めた。
連れさられてから特に何もされてはいなかった。
拘束具をつけられた訳でもなければ、拷問をされたりした訳でもない。
だがこの場所の本当の恐怖を直はすぐ知ることとなった。
窓もなく光もささない空間に監禁されることが時間の感覚を狂わせた。
今が朝なのか昼なのか、閉じ込められて何日が過ぎたのか
それすら全く分からない、「無」の世界。
虚無という名の地獄は静かに、そして確実に直の心に闇を落としていた。
「怪我…大丈夫だったのかな?」
直の脳裏には深々と背中にナイフが刺さった秋山の姿がフラッシュバックしていた。
あの日から何日経過したかも分からず放置され続けている直に
秋山がどうなったのかなど知るすべもなかった。
ただもう、彼の生命力を信じて祈ることしか出来なかった。
直は秋山を心に想うことで気が狂いそうになりそうな孤独を耐えようとしていた。
その姿はまるで断崖絶壁の端に咲く花のように健気だった。


「ふーーん、直ちゃんも中々頑張るよね。」

別室から直の様子をモニターしていた三島の口元に残酷な笑みが浮かぶ。
秋山と同じように心理学を学んだ彼は人を貶める手段と方法とを熟知していた。
彼女のような明朗で天真爛漫な人間には今の環境はあまりにも過酷だった。
闇の中で時間の概念が奪われたまま、愛しいものの消息すら掴めないという現実が
彼女にどのような病を産み落とすことになるのか…。
はたまたこんな状況でも今のままの彼女でいられるのか。
ハセガワや、秋山でさえも陥落させた神崎直という人間に三島は興味を抱いていた。
今はただ四角い箱のような部屋でただ「生かされている」だけの人形でしかない彼女が
この地獄に本当に耐えうるのだろうか。
そして満身創痍で死にかけていた秋山は彼女を助けに現れるのか。
ゲームの駒は全て揃った。
後はそれらが動くのを待つばかりだ。
三島はにやりと笑いながら蛇のような眼差しで直を見つめていた。
暗闇の中心細げな表情を浮かべながらどこか希望を失っていない瞳は誰を想うのだろう。
ククと喉の奥から掠れた笑い声を洩らし、三島はモニターの電源を切った。
「秋山…早くこないと彼女がどうなっても知らないよ」
嗜虐に満ちた三島の心は未だ現れぬ秋山へ向かって牙を剥こうとしていた。
その手始めとして彼が心を傾ける相手である神崎直を壊せば
秋山は一体どういう反応を見せるのだろうか?
そのときの彼を想像すると三島は身がうち震えるほどの興奮を覚えた。
復讐という甘美な囁きに心を躍らせながら
三島は秋山の到着をいまかいまかと待ちわびていた。




「……ん」

悲痛な声で自分を呼ぶ直の声を遠くの方で聞いたような気がした。
それが深層まで堕ちていた秋山の意識を揺り動かす。
直の呼ぶ声が秋山の意志力を急速に覚醒へと導いていた。
ゆっくりと瞬かれる瞳…
はじめはぼんやりとしていた視界がだんだんと輪郭を捉えはじめる。
部屋には誰にもいない様子でうつぶせの状態で寝かされていた秋山は自分の姿を仰ぎ見た。
「酷い姿だな」
背中と肩に負った傷のおかげで厚く巻かれた包帯が目に入った。
まさに満身創痍という言葉がぴったりくる己の姿に秋山は皮肉げな笑みを浮かべた。
そんな自分を厭おうともせずに、秋山は体を起こそうと両腕を床へと付いた。
「…く」
やけに重たく感じる体は動かすたびに激痛が走った。
引き攣れるような痛みに秋山は顔を歪ませる。
しかし今はそんなことを言っている場合ではない。
三島という得体の知れない相手に囚われた彼女を助けなければならなかった。
最大限の気力を振り絞って秋山はなんとか起き上がった。
またもや訪れる強烈な眩暈が再び秋山を襲う。
「今は、倒れてなんかいられないだろう」
自分を叱咤するように呟いた秋山は霞のかかった視界の中ゆっくりと歩き始めた。
それだけのことだけなのに体力が消耗されて呼吸があがる。
高熱を孕む体が悲鳴を上げていた。
額を落ちる冷たい汗を拭いながら、秋山は壁にすがることでなんとか体を支え歩みを進めた。
豪奢な屋敷の中を出口を求めて彷徨う。
自分が動けるような状態ではないことは秋山にもよく分かっていた。
こんな自分が果たして彼女を助けられるのかどうかも疑問に感じていた。
しかし直への恋情が秋山を突き動かした。
立ち向かわなければならない相手のこともまるで分からないというのに
秋山は直を助けるために再びその身を危険の中に晒そうとしていた。
いつもならば用意する周到な計画もなにもなかった。
ただ彼女を救いたいという一念のみで、秋山は己の限界を超えようとしていた。





「ああ、分かりました…それじゃ。」

激しい雨が車のウインドウを打ち付けていた。
運転中だったヨコヤは久方ぶりにかかってきた谷村からの電話を冷静に受け止めていた。
彼とは3回戦が終了して以来顔を合わせてはいなかった。
神崎直の清らかな心根に完敗してから、ヨコヤの人生は大きな変化を遂げていた。
組織から完全に抜けることの出来た彼は自分の手でまっとうな事業を起こしていた。
人が堕ちる様を見ることを楽しんでいたのが嘘のように、
心に中に淀んでいた泥は全て洗い流された。
まるで人が変わったかのように仕事に打ち込んだ彼は「ヨコヤコーポレーション」という
IT関連の会社を立ち上げ、若き事業家として名を馳せるようなっていた。

「三島駿…か。またやっかいごとに巻き込まれているようですね、秋山くん」

呟くように言いながらヨコヤは深い溜息をついた。
彗星のようにIT業界に現れた気鋭の事業主である三島は
ヨコヤにとっても目の上のコブのような存在だった。
まさか三島の絡みで秋山深一の名前を聞くことになろうとは
さしものヨコヤにも想定外の出来事であった。
「さて、秋山くんを探しますか」
大体の事情を谷村から説明を受けていたヨコヤは秋山が立ち寄るであろう
と推測される彼の隠れ家へと車を走らせた。
三島のことを何も知らない彼は必ず一度自分の巣へと戻るはずだ。
ライアーゲーム中、秋山は常に周到な計略を用意して一歩も二歩も先を見ていた。
戦うべき相手を知らずして立ち向かうような愚かな男ではない。
必ず三島を調べようと試みるだろう。
しかし三島は秋山以上に警戒心の強い人間だった。
彼は自分のことが分からないように金の力で情報操作を行っていた。
普通に調べただけでは「三島駿」という人間のルーツは分からないように仕組まれている。
ヨコヤはそんな三島の張り巡らせた網の目を見事にかいくぐり、
彼が隠蔽したがっていた情報を入手することに成功していた。
ヨコヤが知り得たそれは秋山にも深く関係のある「事実」が隠されていた。
この情報を秋山に与えれば神崎直を救う為に少しは役立つことだろう。
二人から受けた借りはこれで返せるはずだ。
「世話の焼ける方たちですね。本当に…」
ヨコヤは苦い笑いを口元に浮かべると、大きく車をターンさせ秋山の隠れ家へと向かっていた。





「つぅ…」
軋むような痛みが胸を貫き、力の失われた足は歩くことを止めた。
激しい雨が容赦なく彼へと降り注ぎ、塗れそぼる長めの髪から水滴が滴り落ちる。
秋山の中に残されていた僅かな気力も雨によってだんだんと削がれていった。
「くそ…」
霞んでいく視界が秋山の行く手を阻んだ。
先程から止まない強烈な眩暈の波が秋山を襲う。
よろめくように地へと膝をついたとき、張り詰めきっていた心が不意に緩んだ。
「うっ、」
地面がぐらりと揺れ、砂のように溶ける意識は身体をも巻き込んでいた。
重心を失った秋山の体はゆっくりと前のめりに倒れこんだ。
「危ないですね……」
ブラックアウトしかけた意識の端側で秋山は見知った声を聞いた。
瞬間、誰かの腕が自分を支える。
苦痛に顔を歪ませながら秋山は声の主を確かめようと瞳をこじ開けた。
「ヨコヤ……」
「秋山くん、お久しぶりです。大丈夫…ではなさそうですね」
事の次第が飲み込めず、呆然としている秋山をヨコヤは助け起こした。
以前とは全く違う風貌といってもよいかつての宿敵は
穏やかな笑みを携えて秋山を見つめていた。
「なんで、お前がこんなところに?」
「谷村から頼まれました。あなたを助けてほしいとね」
「お前が?なんの冗談だ、それ?」
嘲るように告げた秋山は冷えた眼差しでヨコヤを一瞥した。
彼が自分に抱く警戒心がひしひしと伝わってくる。
秋山の母親にした仕打ちや3回戦でのことを考えればそれも無理はないことだろう。
ヨコヤは苦笑を交えながら肩を竦めた。
「残念ながら冗談ではないんですよ、秋山くん。私はあなたに三島駿の情報を伝えにきました」
「三島の?」
明らかに声色が変わった秋山をヨコヤの知性的な眼が見つめた。
満身創痍の状態で雨に濡れた彼の顔色は酷く悪かった。
そうまでしても彼女を助けようとする秋山の様子から
神崎直が彼にとってどれほどの存在であるのかが良く分かった。
ヨコヤは小さく微笑むと秋山の背を押して車へ乗るように促した。
「とりあえず乗ってください。そのままでは神崎さんを助けに行く前に君が死んでしまいますよ」
「大きなお世話だ。」
「無理はしない方がいいです。あなたが死んだら誰が彼女を助けるんですか?」
ぐうの音もでないヨコヤの言葉に秋山は渋々後部座席へと身を滑り込ませた。
「これは…」
座席の上にはバスタオルと着替えがひとそろえにして置かれていた。
以前の彼ではありえない行動の数々に秋山は戸惑いを隠すことが出来なかった。
「お前、なんのつもりでこんなことをする?」
困惑した様子の秋山にヨコヤは余裕が充ちたような声で答えた。
「神崎さんに借りを返したいだけです。他意はありませんよ」
「……どうだかな」
「ふふ、あなたは彼女と違って疑り深い方ですからね。そう簡単に信じろとは言いません。
けれど死にたくなければお使いなさい。自分の体調くらい自分で分かるでしょう?秋山くん」
ヨコヤにそう諭されて秋山は濡れたシャツを脱ぎ捨て、用意されていたバスタオルを手に取った。
「本当だったら病院にお連れしなければいけないんでしょうけどね…」
「病院はもういい」
ぶっきらぼうに言い放った秋山の状態は想像以上に酷いものだった。
運転席で溜息を洩らすヨコヤを尻目に秋山は黙々と身支度を整えていた。
痛みはもう麻痺していた。
それよりも囚われている直を思うと心が痛んだ。
彼女を早く助け出さねばならないという一念が秋山の全てを支えていた。
「そんなに神埼さんが大切ですか?」
「悪いか?」
「いえ、秋山くんが恋愛感情で動かれる方とは思わなかったもので少し意外でした」
「好きにいっていろ、それより三島の情報とはなんだ?」
着替えを済ませた秋山はミラー越しにヨコヤを睨んだ。
この男は一体何を掴んだというのだろう?
射るような秋山の眼差しが車内に緊迫感をもたらしていた。
ヨコヤは助手席においてあった大きめの封筒を秋山へと投げた。
「それは私が調査をした三島駿の身上調査書です。秋山くん、槇山駿という名に覚えはないですか?」
「槇山駿?」
どこかで聞いたことのある名だった。
確か中学から大学のゼミまで一緒だった同級生が槇山駿という名だったと記憶している。
ずっと同じ学校でありながら接することが殆どなかった男の顔を秋山は思いだしていた。
「あなたの同窓生、槇山駿こそが三島駿です。どうやら深くあなたを恨みを抱いているようですよ」
「槇山が?一体何故…」
訳の分からないといったような秋山は手渡された書類に手をかけた。
ここに槇山の、三島駿の全てが記載されている。
ようやく「敵」の姿がはっきりと示された秋山の前に
再び暗雲が立ち込めようとしていることをまだ彼は知る由もなかった。





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2007.9.16るきあ

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